映画『バイオハザード:ザ・ファイナル』 ~人間性を人間よりもつ人間ではない存在~(ネタバレあり)
バイオハザードシリーズの完結編である『バイオハザード:ザ・ファイナル』
を見た感想として大きく二点考えたことがある。
①地球を救うために一度壊すという着想
〇アンブレラ社の目的
本作でアンブレラ社の目的が明らかになった。
Tヴィルスが飛散したのは事故ではなく、
意図的に行われたことであった。
その目的とは、”世界の再構築”である。
人口は増加の一途をたどり、地球温暖化、エネルギーの枯渇などが
発生し、地球は死の淵にいる。
リセットが必要である。これがアンブレラ社の上層部の答えだ。
Tヴィルスで地球上の生物を浄化(根絶)し、
選ばれし者たち(アンブレラ社の幹部)は地下施設で冬眠装置にて
浄化の完了を待つ。
時が来たら、幹部たちは冬眠装置から起き、新たな世界を構築する
という構想であった。
〇広く共有される破滅の価値観
地球は死にかけており、打開するためには一度リセットするしかない
という着想は、先日公開された映画「インフェルノ」も同様であった。
他にも、映画「インターステラ」も近い着想である。
近年の映画には上記の思想は非常に多く見られるものである。
人類の発展によって地球が破滅へと向かい、結果として人類が
滅亡するという発想。
これは、一部の資本主義に警鐘を鳴らす人々による特殊なもの
であるとこれまでは考えていた。
『暴走する資本主義』のロバート・ライシュや、
『産業社会の病理』の村上 泰亮がその代表的な論者である。
しかしながら、今回『バイオハザード・ザ・ファイナル』を見て、
地球破滅の思想は一般の人々にもかなり広く前提として
受け入れられるようになってきているのではないかと
感じた次第である。
②人間性を人間よりもつ人間ではない存在
「アリス、あなたは私たち人間よりもずっと人間的なものをもっているわ」
上記は、アリシアからアリスに対しての台詞である。
〇本作に登場する三つの存在
本作では、三つの存在が登場する。
一つ目が、人間である。
二つ目が、オリジナルの人間を基に作られたクローンである。
三つ目が、人工知能である。
〇人間的とは何か
人間的であるとはどのようなことか。
この問いは哲学分野で繰り返し論じられてきたことである。
私は、非合理的な〈内発性〉だと捉えている。
内から湧き出る内発的な動機によって合理を超えた行動を
行為することが人間的であると考える。
アリシアの台詞を引用したが、アリシアの使用している人間的も
私の捉え方と概ね合致していると考えている。
〇人間的なものを有するのはだれか
その上で、人間的なものを有するのは誰なのだろうか。
映画の中では、人間(=アンブレラ社の幹部)は
最も人間的なものから離れた存在として描かれる。
アンブレラ社以外の人間は、弱者であり、死ぬ運命にある。
生き残る人間=アンブレラ社の幹部は合理的に結論を導く。
そこには、内発的なものは存在しない。
人口知能であるレッドクイーンは、アンブレラ社を裏切り、
アリスの味方をする。
この正当性の根拠は、人命を最優先するという最上位プログラムだと
レッドクイーンは主張する。
もしこれが正しいのであれば、全面的にアリスをサポートしてよい
はずであるが、実際にはアンブレラ社の命令に大きく反することは
できていない。
であれば、やはり上記の主張は困難があり、
アリスに情報提供をしたのは内発的な動機に
基づくものではないのかと推測される。
最後に、アリスであるが、アリスは創られたクローンである。
アリスは自分が人間でないと知った後でも、
自身の命よりも人類の存続を優先する。
アリシアの台詞はそのようなアリスの意志を受けてのものである。
〇人間性を人間が失った世界で
人工物が人間性を保持するというアイロニー
本作の世界では、力の強い人間が生き残る。
しかし彼らは人間性を失った。
代わりに、人間性をプログラムされた人工知能と
創造されたクローンが人間性を保持するという皮肉。
そして、これは今後の現実の社会でも十分に起こりうる
事態であると私は感じた。
ドラマ『僕のいた時間』 ~承認をめぐって~
ただ一つ分かっていることは、僕がどんな状態になっても、僕が愛とぬくもりに包まれているということです。
僕は愛とぬくもりだけで生き続けることができるのだろうか。それだけで、僕は生きている意味を感じることが出来るのだろうか。
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〇ドラマ『僕のいた時間』
フジテレビ・共同テレビの制作で2014年1月8日から3月19日まで放送されたテレビドラマ。
主演は三浦春馬。ALSを発症する主人公と彼を取り巻く人々の生き方を描く。
〇「人は承認されるだけで生きていけるのか」
「人は承認されるだけで生きていけるのか」、これがテーマだと受け取った。承認欲求という言葉に象徴されるように、人にとって他者からの「承認」とは生を実感する上で大切な要素である。認められたい、愛されたいという欲求は根源的であるように思える。
だがしかし、人は“承認される”だけで生を実感できるのか。
拓人は講演で、「愛と温もりに包まれていることは確かだ。だが、それだけで生を実感できるのだろうか」と語っていた。“承認されること”は満たされている。
しかしながら、ALSの進行が進むことによって自己の感じていること・考えていることを表現できなくなる。
思いを相手に伝わるように表現することは非常に高度なことである。
目の動き等でYES,NOの意思を伝えることはできても、相手に自分の想いを伝えることは困難だ。
私が言いたいのは、他者を承認し、相手がそれをその通りに受け取ることは非常に高度なコミュニケーションだということである。
“承認すること”(結果、相手が承認されたと感じること)がALSの進行により難しくなる。このとき、拓人は“他者から承認されている”が“自分が相手を承認できなくなる”という状況に置かれる。
他者を承認できないという事態。この状況下における“生の実感”はどうなるのだろうか。
深く考える必要のあるテーマであると思う。
いえない (RADWIMPS)を聴いて考えたこと
君のいない世界で僕は
はじめて君が望んだ僕になる
情熱が冷めるその音を
この耳で聞くくらいならば・・
〇『いえない』について
Xと○と罪と
作曲︰野田洋次郎
作詞︰野田洋次郎
〇この曲が訴えていること
冒頭で引用した歌詞がすべてである。
この曲で“僕”が恐れていること、
それは自分の愛情が冷めてしまうこと。
それが恐くてしょうがない。
最愛の人への愛情が冷めてしまう。
いずれ冷めてしまうことが分かっているのだ。
ただ一つだけそれを避ける方法がある。
「君が今死ぬこと」である。
今君が死ねば、“僕”はずっと君に縛られ続けることができる。
君のことをずっと想うことができる。
だから頼むから死んでください。
そんな曲だと思う。
〇共感
私は強く共感した。
今、大切で愛している“君”。
だけど、どうしても愛情が薄れてしまうだろうと予感してしまう。
相手の愛情が冷めてしまうのではなく、
自分が冷めてしまう。
自分の感情なのに、コントロールができない。
これまで自分がかけてきた甘い言葉、誠実な言葉を裏切るのは自分だ。
そのことがくやしくて、でもどうしようもできない。
そう、相手が死ぬようなことがなければ。
こんな感情を表現した音楽にこれまで出会ったことがなかった。
ずっと心に残り続ける名曲となると思う。